午前二時。
タクシーのドアが閉まる音が、夜の住宅街に吸い込まれていった。
さやはヒールを手に持ったまま、アスファルトの上を歩いた。冷たかった。でも、それが心地よかった。今夜は同伴から始まって、アフターまで。七時間、笑い続けた。
ビルの谷間から、星が一つ見えた。
(莉子、起きてるかな)マンションのエレベーターを待ちながら、さやは携帯を開いた。母からのLINEが一件。
胸の奥が、ちくりとした。
莉子は四歳だ。ちょうど、さやの顔をちゃんと認識して、さやの不在をちゃんと寂しがれる年齢になった。それが嬉しくもあり、苦しくもあった。
部屋に入ると、母がソファで居眠りしていた。テレビは消えていて、莉子の描いた絵がテーブルの上に散らばっていた。ピンクのクレヨンで描いた、どこかの家。煙突から煙が出ている。家族らしき棒人間が三人。さや、莉子、そして誰だろう。父親のいない莉子が、どこかで見た「家族」を描いたのかもしれない。
さやはそっと絵を一枚手に取った。
(この子のためなら、頑張れる)いつも、そう思う。それだけが、今夜も自分をここまで連れてきた。
三月の初旬、常連の中島が個室で言った。
笑顔を崩さなかった。崩せなかった。
グラスを磨く手が止まった。
(保育料)今月、また引き落とされる。家賃、保育料、食費、光熱費。水商売の給料は、確かに多い。でも出ていく分も多い。ドレス代、美容院、ネイル、タクシー代、お客様への気遣い。残るのは、思ったほどじゃない。
曖昧に笑って、その場をやり過ごした。
でも帰り道、タクシーの中で、さやは窓の外を見つめながらぼんやりと考えた。中島は悪い人じゃない。むしろ優しい。そして彼の申し出は、現実的な解決策ではある。
(違う違う)頭を振った。
家に帰ると、莉子がリビングで待っていた。午前一時過ぎに。目が真っ赤だった。
抱き上げた。小さな体が、さやにしがみついた。
(そばにいたい)いつもそう思う。夕方に幼稚園に迎えに行きたい。お風呂に入れてあげたい。絵本を読んであげて、「おやすみ」を言いたい。
でも夜が、さやの稼ぎ時だった。
あれはいつからだろう。
お酒が、辛くなってきたのは。
二十代の頃は平気だった。むしろ楽しかった。でも三十を過ぎて、体が変わった。朝、顔がむくんでいる。昼まで起きられない。胃が荒れる。
鏡を見るのが、少し怖くなった。
お店では、後輩の子たちが入ってくる。二十歳そこそこの、肌がぴんとした子たち。指名が取れる。売り上げが伸びる。さやはいつの間にか、「まとめ役」「教育係」になっていた。
お局、という言葉が、ある夜、耳に入った。
後輩の子が、廊下でひそひそ話しているのを、聞いてしまった。
笑えた。笑うしかなかった。
(昼の仕事に戻れたら)そう思ったことは何度もある。でも、計算すればわかる。事務職の求人、手取り十八万。今の半分以下だ。家賃を払ったら、保育料を払ったら、何も残らない。
夜の仕事をやめるためには、別の収入が必要だった。
でも、どうやって。
五月の連休明け、さやは倒れた。
朝、起き上がれなかった。そのまま救急で運ばれて、検査をして、入院になった。
白い天井を見上げながら、さやは笑いそうになった。飲酒禁止。それが仕事なのに。
三日目に、母が来た。翌日、同僚の美香が来た。二人とも、帰り際に封筒を置いていった。
合わせて八万円。
さやは封筒を握りしめた。ありがたかった。本当に。でも同時に、思った。
(これじゃ、何も変わらない)退院したら、また夜の仕事に戻る。また肝臓をやられる。その繰り返し。
ベッドの中で、ふと、中島の言葉が浮かんだ。「家賃、出すから」。
あの申し出を受けていれば、今頃……。
(違う違う)首を振って、携帯を開いた。
病室で、さやは検索し続けた。
「仕事 在宅 高収入」
「稼げる 30代 女性」
「副業 シングルマザー」
出てくるのは、怪しいバナー広告、「月収100万円可能!」の謳い文句、LINEに誘導するランディングページ、「詳しくはDMへ」というInstagramアカウント。
三時間検索して、疲れて、携帯を枕の上に置いた。
ベッドサイドの棚に、一枚の紙が貼ってあった。母が持ってきた、莉子の絵。クレヨンで描いた、太陽と、家と、棒人間。上に、ひらがなで書いてあった。
「ままへ」
さやは、しばらくそれを見つめた。
退院して、さやはお店に戻った。
体に気をつけながら、お酒の量を減らしながら、でも働いた。莉子のために、働いた。
同時に、副業の模索を続けた。まず、転売を試みた。家の中の不用品を、フリマアプリに出した。莉子が使わなくなったおもちゃ、去年買ったけど着なかった服、何年も開けていない本。三週間で、合計一万四千円になった。
(もっと仕入れれば、もっと稼げる?)Twitterで転売について調べた。YouTubeで転売系の動画を見た。「月収三十万円!」「初心者でも稼げる!」という動画が、山のようにあった。
何を仕入れればいいか、さっぱりわからなかった。
「リサーチツールがあれば解決します」というYouTuberを信じて、月額一万二千円のツールに課金した。使い方がわからなかった。サポートにメッセージを送ったら、「マニュアルをご覧ください」と返ってきた。マニュアルを読んだら、英語で書いてあった。
二ヶ月後、さやはそのツールを解約した。
(やっぱり、私には無理なのかな)そんな夜が、続いた。
七月のある夜、アフターが終わったのが午前一時だった。
お客様をタクシーに乗せて、さやは一人、路上に立った。空気が、少しだけ涼しかった。夏の夜の、潮の匂いがした。
(一人の時間が欲しい)自分のアパートに帰るには、まだ気持ちの整理がつかなかった。かといって、このままどこかの居酒屋に入る気にもなれなかった。お酒は、もう十分飲んだ。
商店街をぶらぶら歩いていると、一本裏の路地に、淡い光が見えた。
小さな看板。「Bar Terrace」。
なんとなく、引き寄せられた。
ドアを開けると、カウンターが六席だけの小さな空間だった。落ち着いた照明、クラシックジャズ、静かな空気。
カウンターの中に、一人の女性がいた。三十代半ばくらいだろうか。黒いシャツに、清潔感のあるエプロン。切れ長の目が、さやを見て、少し細くなった。
さやはカウンターの端に座った。
自分がため息をついていたことに、さやは気づいていなかった。
女性は少し間を置いた。
さやは目を丸くした。なぜわかったのか。
グラスに氷を入れる音が、静かな店内に響いた。さやは携帯を開いた。いつもの癖で、副業関連のサイトをスクロールし始めた。
グラスが置かれた。ジンジャエール、大ぶりのグラスに、ミントの葉が添えてあった。
思わず、聞いた。
謙遜でも、自慢でもない、淡々とした口調だった。
女性は少し考えてから、言った。
さやは、その言葉をしばらく頭の中で転がした。
(そんなもん? そんな熱量で、できるんだ?)もっと大きな夢があって、熱い志があって、そういうものが必要だと思っていた。「自分の城が持ちたい」という、それだけの理由で人は独立できるのか。
この夜は、それ以上話が続かなかった。席を立とうとしたとき、扉が開いて、スーツ姿の男性客が入ってきた。常連らしく、カウンターに慣れた様子で座った。
男性が、カウンターの中の女性に言った。さやは、少し驚いた。先生?
女性は苦笑いしながら、「いらっしゃいませ、またですか」と返した。
男性が振り返って、楽しそうに言った。
女性は少し困ったような顔をしながら、でも否定もしなかった。
さやは、小さく笑った。三十分ほどで、席を立った。
女性の声が、背中に届いた。
外に出て、さやは少しだけ、気持ちが軽くなっていることに気づいた。なぜかはわからなかった。ただ、良いお店を見つけた、という感覚があった。先生、か。なんとなく、しっくりくる呼び方だと思った。
それから二週間後のことだった。
その夜、常連の桐山が「アフター行こう」と言い、さやは断れなかった。気分が乗らなかったが、仕事だった。
向かったのは、あのバーだった。偶然だったのか、それとも、さやが無意識に誘導したのか。
カウンターの中の先生が、さやと目が合って、少し微笑んだ。
桐山はウイスキーを頼んで、上機嫌で喋り続けた。仕事の話、ゴルフの話、そして、いつもの話になった。
三杯目に入ったあたりから、桐山の言葉が変わった。肩に手を置いてきた。
笑顔を保ちながら、さやの中で何かが疲弊していった。
そのとき、カウンターの中から声がした。
時計を見ると、閉店まで一時間以上あった。
桐山が少し不服そうな顔をしたが、先生はにこやかに、でもきっぱりと会計を進めた。タクシーを呼んで、桐山を送り出した。
扉が閉まった。
静かになった店内で、さやはカウンターに肘をついた。
声が、ほんの少し、震えた。
気づいたら、頬を涙が伝っていた。自分でも、驚いた。こんなことで泣くつもりじゃなかった。でも、止まらなかった。
先生は何も言わずに、お水と、小さく折りたたんだティッシュをそっと置いた。
しばらくして、さやは話し始めた。止まらなかった。夜の仕事のこと、莉子のこと、体を壊したこと、転売で失敗したこと、中島の申し出のこと、もう若くないこと、でもやめられないこと。
先生は、ただ聞いていた。相槌を打ちながら、グラスを磨きながら。
しばらくして、静かに言った。
さやは頷いた。
また頷いた。先生は、少しだけ首を傾けた。
「スキルがない」と言う人に、私は十年間バーで出会い続けてきました。でも、スキルがない人に会ったことは、ほとんどありません。ほぼ全員が、「自分にとっての当たり前」をスキルだと認識していないだけです。
水商売で働いてきた人が持つ「初対面の人と三十分で打ち解ける力」「相手の気分を読む力」「場の空気を変える力」は、ビジネスの世界では高度なコミュニケーションスキルです。問題は能力の有無ではなく、気づきの有無です。
翌日、午前十一時。
さやは、待ち合わせのカフェに向かった。昨夜、先生に言われた。
なぜ行こうと思ったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、断る理由が見つからなかった。
カフェに入ると、先生はすでにいた。昨夜とは違い、私服姿だった。シンプルな白いシャツ。
ランチを食べながら、いろんな話をした。先生は、二十歳で起業したこと、通訳の仕事をしていたこと、海外を転々としていたこと、十年前にバーを開いたことを、淡々と話した。
さやは、水商売に入ったきっかけを話した。元夫のこと、離婚のこと、莉子が生まれた直後の記憶を。
不思議と話しやすかった。先生が、何も評価しないからだと思った。驚かない。引かない。ただ聞く。
デザートが来たころ、先生が携帯を取り出した。
先生は何かを入力しながら、次の質問をした。
先生は、静かに入力し続けた。三十分ほど、質疑応答が続いた。さやは、聞かれながら気づいた。自分がこれほど細かいことを言語化できることに。
携帯の画面が、さやの方に向けられた。そこには、さやの話した内容が、整理されて並んでいた。「初対面力コーチング」「オンラインでの人見知り解消セッション」「接客・接遇のマンツーマン指導」。
さやは、眉をひそめた。
さやは、少し考えた。
コーヒーカップを置いて、先生は少しだけ遠くを見るような目をした。
さやは、黙って聞いた。
さやは、その言葉を、口の中で繰り返した。
窓の外、秋の光が斜めに差し込んでいた。
さやは、しばらく何も言わなかった。
十年以上、夜の仕事をしてきた。悪い仕事だとは思っていない。でも、ずっと「これしかない」と思っていた。他には何もできない、と。
でも、今、目の前にいるこの人は、「自信だけはあった」と言った。
さやにも、あるのかもしれない。初対面の人の心を開く力。場の空気を読む力。相手の話を引き出す力。莉子のために働き続けてきた力。何度転んでも、また起き上がってきた力。
それは、スキルと呼んでいいのかもしれない。
先生は、小さく微笑んだ。
カフェを出ると、午後の陽が眩しかった。
幼稚園のお迎えまで、あと二時間ある。
さやは、歩きながら、携帯を開いた。いつもの癖で、副業サイトを検索しようとして、やめた。代わりに、ノートアプリを開いた。
「得意なこと」
そう打ってから、少し考えて、書き始めた。初対面の人の緊張を、五分でほぐせる。相手の話したいことを、引き出せる。場の空気が重くなったとき、変えられる。
書きながら、さやは思った。これは、自分の話だ。誰かに言ってもらうまで、気づかなかった。でも、確かに自分がやってきたことだ。
(やっていけるっていう自信)先生の言葉が、頭の中で繰り返された。まだ、何も変わっていない。夜の仕事は続いている。莉子は今日も幼稚園にいる。お金の不安は、消えていない。
でも、何かが、少しだけ違って見え始めていた。
さやは、歩き続けた。午後の光の中を。
あなたの「宝」も、まだ眠っているかもしれない。
さやと同じように、「自分には何もない」と思っている人ほど、
話を聞くと必ず種が見つかります。
さやのようなケースは、珍しくありません。「稼げる」「高収入」「在宅」というキーワードで検索すると、今も怪しい情報が大量に出てきます。なぜそうなるかというと、副業を「お金を稼ぐ手段」としてだけ考えているからです。
本当に必要なのは、「自分に何ができるか」という問いから始めること。検索ワードを変えるだけで、見える世界が変わります。