ロードマップを受け取った夜から、さやは変わった。
莉子を寝かしつけたあと、スマホを開く。夜の仕事に行く前の、ほんの30分。でも今は違う使い方をしている。
Xのアカウントを作った。
名前は「さや|初対面力コーチ」。プロフィール欄に書いたのは、先生に言われた言葉をそのまま借りたものだ。「初対面の緊張を、武器に変える。営業マン専門コーチ」。
最初の投稿は緊張した。指が震えた。でも、えいっと押した。
いいねが3つついた。フォロワーが見知らぬ誰かから1人増えた。
「始まった」と思った。2週間後。さやのフォロワーは、31人だった。
最初の1人からじわじわ増えて、でも最近は止まっている。毎日投稿しているのに。朝、仕事前に1本。夜、帰ってきてから1本。合計28本の投稿。いいねの平均は5つ。リプライはほぼゼロ。
タイムラインを眺めると、フォロワーが何万人もいるアカウントが流れてくる。「フォロワーを増やす5つの方法」「バズるツイートの構造」「1ヶ月で1000人増やした私の戦略」。思わず読んでしまう。「プロフィールを最適化する」「毎日投稿する」「ハッシュタグを使う」。
全部、もうやってる。気づいたら莉子の夕飯を作りながらも、お風呂に入れながらも、頭の中はずっとXのことだった。寝かしつけながらスマホを確認して、莉子に「ママ、またスマホ見てる」と言われて、「ちょっと待って」と返した。
「ちょっと待って」が、最近口癖になっていた。
ある夜、莉子が返事をしなくなった。
夕飯の支度をしながら「今日、幼稚園どうだった?」と聞いた。返事がない。振り返ると、莉子がソファでぬいぐるみを抱えてこちらを見ていた。
無言。莉子はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。唇をとじたまま、窓の外を見た。
さやはフライパンを置いて、莉子の前にしゃがんだ。
その言葉を言った瞬間、さやは自分の声が耳に残った。
——黙ってたら、わからない。スマホを思い出した。28本の投稿。誰にも届かなかった言葉たち。
目の前にいる莉子にすら、伝わらなかった。毎日一緒にいるのに。顔が見えているのに。それなのに、画面の向こうの、顔も名前も知らない誰かに——。
さやはゆっくりと息を吐いた。
莉子はしばらく黙っていたが、やがてぬいぐるみをさやに差し出した。
さやはぬいぐるみを受け取りながら、今夜のバーのことを考えていた。
午前2時。仕事を終えて、さやはいつもの路地に立っていた。暖簾をくぐる。カランと鈴が鳴る。先生は、今夜も一人でグラスを磨いていた。
なんだか恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになった。
きつい言葉だった。でも、嘘じゃないとわかった。
先生はしばらく黙っていた。
先生はグラスをカウンターに置いた。
さやはバーの中を見回した。薄暗い照明。静かなジャズ。確かに、「そういう場所」だと思った。
今夜の授業は、それで終わりだった。
次の出勤の夜。さやが楽屋で着替えていると、同僚のみくが「見て見て」とスマホを差し出してきた。
画面には、みくのInstagramが開いていた。フォロワーは8,000人。最新の投稿には、いいねが400以上ついている。
さやはスクロールした。
いいねが多い投稿は、全部こういう内容だった。テクニックじゃない。ハウツーじゃない。「わかる」と思わず言いたくなるような、誰かの心の中にある言葉。
さやはスマホを返しながら、先生の言葉を思い出した。
——誰に向けて書くかを、まず決めてください。みくが発信しているのは、「お客さんのことを考えている自分」だ。接客の悩みを持つ人なら、思わず「わかる」と言いたくなる。私が発信すべきは、初対面が怖くて、商談の最初の5分で空回りして、それでも諦めずに頑張っている、あの頃の自分みたいな人への言葉だ。
でも、その夜の帰り道、さやはポチっていた。
「フォロワーを3ヶ月で1000人増やすSNS攻略マニュアル」。4,980円。先生に「買えばいいじゃないですか」と言われた言葉が頭に残っていた。買えばいい、なら買ってみよう。
PDFは翌朝届いた。80ページ。読み始めた。
さやはため息をついた。全部、知ってた。全部、もうやってた。80ページ読んで、新しいことは何もなかった。最後のページに書いてあったのは、「継続が大事です。諦めずに発信し続けましょう」。
スマホを伏せた。莉子が隣で寝ている。小さな寝息が聞こえる。ぽんちゃんを抱えたまま眠っていた。
「魔法は、なかった」3日後の深夜。さやはまたバーの暖簾をくぐった。
先生は少し笑った。笑ったのを見たのは初めてかもしれない。
先生はシェイカーを取り出した。今夜は何かを作るらしい。
さやは首をかしげた。シェイカーに氷を入れる音がした。リキュールを注ぐ。
先生はグラスに注いだ。淡いオレンジ色のカクテルだった。さやはグラスを受け取った。
さやはカクテルを一口飲んだ。甘くて、少し苦かった。今夜の授業は、それで終わりだった。
それから1週間、さやはリプライだけをした。
投稿は1日1本。でも毎朝30分、タイムラインを読んで、「わかる」と思った投稿にリプライをした。
さやはすぐにリプライを送った。「わかります。私も昔、初対面のたびに頭が真っ白になってました」。翌日、そのアカウントがさやの投稿にリプライをくれた。「昨日はありがとうございます。フォローしていいですか」。
フォロワーが32人になった。さやはその投稿をじっと見た。そして、何かひらめいた。
引用してみた。その人の「また失敗した」という投稿を引用して、こう書いた。
するとその引用投稿に、いいねが12ついた。フォロワーが2人増えた。リプライで関係を作って、引用で自分の言葉を乗せる。誰かに教わったわけじゃない。やってみたら、そうなっていた。
さやはメモに書いた。「リプで絡む。引用で紹介する」。
その週の深夜、さやはまたバーに来ていた。
さやは説明した。リプライで話しかけて、その人の投稿を引用して、自分の言葉を乗せた。
さやは黙って考えた。莉子のことを思い出した。毎日一緒にいても、ちゃんと向き合わなければ伝わらなかった。数じゃない。ちゃんと届いているかどうかだ。
さやは財布を取り出した。
暖簾をくぐる。夜風が冷たかった。さやはスマホを開いた。タイムラインに、初対面の営業マンっぽいアカウントが投稿していた。「今週も商談ゼロ。自分には向いてないのかな」。
さやは迷わずリプライした。「向いてないんじゃなくて、入口が違うだけだと思います。最初の5分、何をしていますか?」
送信ボタンを押した。フォロワーは、まだ38人だった。でも今夜も、「届いた気がする」と思いながら、さやは夜道を歩いた。
あなたの「誰に届けるか」を
一緒に決めませんか。
さやのように、発信を始めたけど誰にも届かない。
そう感じているなら、まず「誰に向けて書くか」を設計することから始めましょう。
発信を始めて最初にぶつかるのが「フォロワーが増えない」という壁です。でも、フォロワーの数は結果であって、目的ではない。
目の前の1人に届いたかどうか。その積み重ねが、やがて10人になり、100人になる。魔法はありません。ただ、正しい方向に歩き続けること。それだけです。