さやはノートを三冊使った。
あの日、カフェで先生と話してから、二週間が経っていた。仕事の合間、昼間の空き時間、莉子が寝たあとの深夜。思いついたことを、片っ端から書いた。
「初対面の人の緊張を、五分でほぐす方法」
「相手が話したいことを、顔色で読む方法」
「場が重くなったときの、立て直し方」
「お客様の記念日を、なんとなく覚えておく方法」
「怒っているお客様を、笑わせるまでの手順」
書けば書くほど、出てきた。止まらなかった。
十年間、夜の仕事で使ってきたことが、全部言葉になっていった。
(これだけあれば、何かできる)そう思った。確かに、そう思った。
ノートを抱えて、さやはあのバーに向かった。先生に見せたかった。これだけ集めました、と。
バーのドアを開けると、平日の夜で客はまだいなかった。先生が一人、カウンターの中でグラスを拭いていた。
さやはカウンターにノートを広げた。びっしりと書かれたページを、先生はゆっくり、一枚ずつめくった。
しばらく、沈黙があった。
先生はノートを閉じた。ジンジャエールを一杯作って、さやの前に置いた。
さやは、グラスを持つ手が止まった。
さやは、ノートを見つめた。二週間、本当に必死で書いた。お店の仕事が終わって、くたくたの体で、莉子が寝てから机に向かって。それが、仕事にならない?
先生は少し考えてから、カウンターに肘をついた。
さやは、首を傾けた。
さやは、少しの間、黙っていた。
さやはジンジャエールを一口飲んで、ノートを開いた。
先生は、さやのノートをもう一度開いた。
さやは、ページを眺めた。
さやは少し考えた。
先生は、少し目を細めた。
さやは、少し照れた。
さやは、黙った。
夜の仕事では、一時間の時給は大体決まっていた。でも、これは違う。これは自分が値段を決める。
その夜から、さやの机の上の風景が変わった。
ノートの横に、白紙のルーズリーフが積まれた。
「誰に売るか」
「何を教えるか」
「一回何分か」
「値段はいくらか」
「どこで売るか」
書いては消して、消しては書いた。
営業マンに売る、と決めた。次の日には、でも私は営業の経験がないから説得力がないかも、と思って消した。ママ友に売る、と書いた。でもお金を払うかな、と思って消した。
気づくと、深夜の二時だった。ルーズリーフは、ぐちゃぐちゃだった。
莉子の寝顔を見に行った。小さな胸が、規則正しく上下していた。
(この子のためなら)いつも、そう思う。それでまた、机に戻った。
翌々日の夜、お店に出た。
十一時を回ったころ、後輩の美咲が控え室に入ってきた。二十三歳。入店して半年の子だ。メイクを直しながら、ため息をついた。
さやは少し笑った。
なんもできない。
その言葉が、さやの中で引っかかった。
美咲は、きょとんとした顔をした。
美咲は、まだ半信半疑な顔をしていた。でも、少しだけ表情が柔らかくなっていた。
さやは、鏡の中の自分を見た。
(そうかな)わからなかった。でも、美咲に話しながら、気づいたことがあった。
さっき自分がやったこと。美咲の「なんもできない」を聞いた瞬間、自然に種を探していた。あの子が持っているものを、言葉にしていた。
先生が、カフェで自分にやってくれたことを。
(ああ、これか)これが、自分にできることだ。と、さやは思った。
三日後の夜、さやはまたバーに行った。
決まらない、と正直に言うつもりだった。でもドアを開けたら、先客が二人いた。先生は接客中で、さやに小さく頷いて、いつものジンジャエールを出してくれた。
さやは端の席で、ノートを開いた。
隣のお客さんの会話が、断片的に聞こえてきた。新しいビジネスの話をしているようだった。熱心に、でも楽しそうに。
(ああいう話、私もいつかできるのかな)一時間ほどして、客が帰った。先生が、さやの前に来た。
先生は少し微笑んだ。
先生はグラスを磨きながら、続けた。
さやは、ノートを見つめた。
それから数日後の週末。
土曜日の朝、さやは朝から机に向かっていた。莉子は居間でアニメを見ていた。
さやは、少し迷った。
さやは振り返った。
さやは、なにも言えなかった。
四歳の子どもに言われるまで、気づかなかった。毎晩、莉子の話を聞いてきた。幼稚園でどんなことがあったか、誰と遊んだか、何が嫌だったか。莉子が話しやすいように、質問を選んでいた。それが当たり前で、スキルだとは思っていなかった。
莉子は、またアニメに戻った。
さやは、机に向かって、ルーズリーフに書いた。
「話を聞く力」
「子どもにも伝わる言葉で話す力」
消さなかった。
その週末、さやの母が莉子を預かりに来た。
母は少し黙って、それから言った。
さやは顔を上げた。
褒めているのか、心配しているのか、よくわからない口調だった。でも、さやには、前者に聞こえた。
莉子が玄関で靴を履きながら、振り返って言った。
それから二週間ほどが経った。
さやはようやく、一つの答えを出した。
「コミュニケーションが苦手な人向け、初対面力アップの個別セッション。一回六十分。Zoom形式。」
値段は、三千円にした。安いかもしれないとは思った。でも最初は実績を作ることが先、とどこかで読んだ。
ノートに書いて、しばらく眺めた。これでいい気がした。
次の日の夜、バーに行った。先生に見せた。
先生はじっくり読んで、顔を上げた。
先生は、少し間を置いた。
さやは、きょとんとした。
少し、空気が変わった気がした。先生の声は穏やかだったが、有無を言わせない何かがあった。
さやは、何も言えなかった。
先生は、グラスを磨きながら続けた。
さやは、しばらくジンジャエールを見つめていた。
(次にすることは、一つ)席を立つとき、先生が言った。
副業でつまずく人の多くは、「正解を教えてもらおう」とします。でも副業は、正解を教えてもらうものではありません。自分で考えて、試して、修正する。その繰り返しが、やがて「自分だけのやり方」になります。答えは常に、自分の中にあります。
さやは、その夜、家に帰ってから考えた。
商品が決まった。次にすること。
(お客さんに届ける場所が必要だ)先生が言っていた。お店を借りる段階。自分のビジネスで言えば、それはどこだろう。
携帯を開いた。「副業 サービス販売 プラットフォーム」と検索した。
SkillShare、ストアカ、ココナラ。いくつか出てきた。一つずつ開いて、読んだ。深夜まで読んだ。
ストアカは、講座形式が多い。SkillShareは英語が多い。ココナラは、個人のスキルを売れる。
ここにしよう、と思った。
次の日の昼、莉子が幼稚園に行っている間に、アカウントを作った。プロフィールを書いた。サービスの説明を書いた。値段を入力した。出品した。
終わったとき、なんとも言えない気持ちになった。恥ずかしいような、誇らしいような。
携帯の画面に、自分のサービスページが表示されていた。
「コミュニケーションが苦手な方へ。初対面力アップ個別セッション。60分 ¥3,000」
(出した)莉子が帰ってきたとき、さやは思わず言った。
さやは、笑った。
一週間後。
注文は、ゼロだった。
プロフィール画像を変えた。説明文を書き直した。値段を二千五百円に下げた。
それでも、ゼロだった。
(何がいけないんだろう)ページを何度も見返した。悪くないと思う。でも誰も来ない。
またバーに行きたくなった。でも、先生の言葉を思い出した。
(自分で考えなさい、ということだ)我慢して、家で考えた。なぜ売れないのか。なぜ誰も来ないのか。
夜中に、ふと思った。
(私のページ、誰かに見てもらったことあるかな)ない、と気づいた。出品して、ただ待っていた。
先生が言っていた。お店を構えることと、集客は別だ、と。
さらに数週間が経った。
さやはまたバーに行った。今度は報告のためではなかった。自分で考えた結果を、確かめるために。
先生は頷いた。
さやは、少し安心した。
先生は、カウンターに一枚の紙を置いた。
さやは、紙を受け取った。先生が手書きで書いたらしい、簡単な図だった。
「商品決定 → 出品 → 発信開始 → 初受注 → 改善 → 価格改定」
縦に並んだ矢印。それぞれに、「何をするか」が一行で書いてあった。
先生は、さやの目を見て言った。
さやは、少し考えた。
先生は、静かに頷いた。
さやは、手元の紙を見つめた。
一年以内。莉子が小学校に上がる前。
(できるかな)わからなかった。でも、今夜は、一か月前より、ずっと具体的に考えられている自分がいた。
ノート三冊分の「種」は、少しずつ、形になってきていた。
一年後を目標に設定したさやは、この夜からロードマップを手帳に書き始めます。副業には「始める」より「続ける」ことの方が難しい。でも、ゴールと道筋が見えていれば、前に進み続けられます。
さやが「スキルがない」と言う人のほとんどは、実はスキルを持っています。問題は、そのスキルが「売れる形」になっていないことです。食材がどれだけ良質でも、料理にならなければお客様には出せません。素材を「商品」にする工程が、副業には必ず必要です。